月森あいらの歴史雑談

歴史の雑談をします。

曽我兄弟の仇討ち

 

鎌倉幕府の成立直後。1193年(建久4年)5月28日(旧暦)。

 

前年、征夷大将軍になったばかりの源頼朝が行なった『富士の巻狩』。当時の大大大イベントです。FUJI ROCK FESTIVALって表現している作家がいましたが、そんな感じ。

 

そんな晴れがましい場は、しかし血にまみれます。頼朝が信頼して巻狩の運営を任せていた工藤祐経(くどうすけつね)が殺されました。

 

 

殺したのは『曽我兄弟』と呼ばれる、工藤祐経の親戚筋に当たる兄弟です。

 

曽我十郎祐成(そが・じゅうろう・すけなり)=兄
曽我五郎時致(そが・ごろう・ときむね)=弟

 

兄が『十郎』で、弟が『五郎』です。ややこしいですが、名づけた人が違うので順番通りではないんです。

 

平安末期の人物なので、幼名があります。兄が一万〈一萬〉(いちまん)。弟が筥王〈箱王〉(はこおう)。

 

兄=曽我祐成=十郎=一万
弟=曽我時致=五郎=筥王

 

名前も、その表記バリエーションもいっぱいあってこれまたややこしいのですが、ここでは兄、もしくは十郎。弟、もしくは五郎と呼びます。個人的にいちばん呼び慣れているので。

 

 

曽我兄弟の父・河津祐泰(かわづのすけやす)は、工藤祐経によって殺されました。1176年のこと、富士の巻狩の17年前です。

 

兄は五歳、弟は三歳です。

ふたりの母・満江御前(まんえごぜん)は兄弟を連れて再婚しました。
女性がひとりでなんて生きていけない時代ですから。

 

再婚相手が曽我祐信(そがのすけのぶ)なので、兄弟は『曽我兄弟』を名乗っています。

 

兄弟は、兄が22歳、弟が20歳のときに、心願だった父の仇討ちを成し遂げます。これが冒頭、富士の巻狩でのこと。

工藤祐経は死にます、兄の十郎はその場で殺されます。弟の五郎はつかまって源頼朝の前に引き立てられますが「兄に従いたい」との願いが叶えられ、殺されます。

 

17年間、父の仇である工藤祐経を狙い続けて本懐を遂げた兄弟はともに葬られます。

 

関東一円を中心に、日本中に曽我兄弟の墓、兄弟を祭った神社や寺、遺跡があります。

それだけ日本の歴史において爪痕を残した事件だったということでしょう。

 

神奈川県小田原市・城前寺

神奈川県小田原市・城前寺

城前寺内の曽我兄弟幼少像

城前寺内・曽我兄弟幼少像

城前寺近く・宗我神社では、大願成就した兄弟を偲び祭っての『曽我の傘焼きまつり』が行なわれています。

曽我の傘焼きまつりのポスター

曽我の傘焼きまつり(2022年5月21日開催)

曽我の傘焼きまつり・幟

曽我の傘焼きまつり

曽我の傘焼きまつりで燃やされる傘

曽我の傘焼きまつり

最近では2022年5月21日に開催されました。

kasayaki.com

 

曽我兄弟の遺跡はほんとうにたくさんあります。

 

五郎の沓石

五郎の沓石

五郎がこの石に足を載せて踏ん張ったら、石がへこんだそうです。その石です。

 

いや嘘やん。

(見たときほんとうに声が出ました)

 

真実かどうかではなく、五郎がこういった足跡を残している、大切に保存されている、それだけ慕われている存在である、そこが重要なんですよ……嘘やんとか言ったらだめ。

 

 

静岡県富士市の曽我寺の石碑

静岡県富士市・曽我寺

曽我寺の曽我兄弟像

曽我寺の曽我兄弟像

曽我八幡宮・曽我兄弟幼少像

曽我八幡宮の曽我兄弟幼少像

富士市のホームページにも詳しいです。

www.city.fuji.shizuoka.jp



『曽我兄弟の仇討ち』は物語、絵巻物や屏風絵など、またさまざまな芸能の題材として現代にまで受け継がれています。

 

歌舞伎『寿曽我対面』の看板(歌舞伎座前)

歌舞伎『寿曽我対面』の看板(歌舞伎座前)

 

能の『小袖曽我』『夜討曽我』 など、曽我兄弟の仇討ちを扱った作品はたくさんあります。

 

現在手に入る書物にもいろいろあります。

 

bookclub.kodansha.co.jp

こちらは子供向けの、入門書として読みやすいかと思います。

 

www.yamakawa.co.jp

著者の坂井孝一氏は、大河ドラマの監修としても尽くしておられる方です。

 

 

弟の五郎は、11歳のとき箱根神社に預けられました。仇討ちを祈念する息子を守りたいという、母の願いだったようです。

五郎は、ぜんぜん諦めてないわけですけど。

 

箱根神社には、五郎が剣の稽古の相手とした『兄弟杉』の切り株などが残っています。さすがに杉の木そのものは残っていませんでした、800年前のことなので。

 

この杉の木にがしがし斬りつけて、剣の稽古をしたらしいです。仇討ちやる気満々じゃないですか。

曽我神社の兄弟杉の解説板

曽我神社・兄弟杉の解説

曽我神社の兄弟杉の切り株

曽我神社の兄弟杉(の切り株)

 

箱根神社内の曽我神社の扁額

箱根神社内の曽我神社

曽我神社の由来書解説板

曽我神社の由来

兄弟が仇討ちに使ったという刀も箱根神社に残っています。

箱根神社・宝物殿前(2021年7月撮影)

箱根神社・宝物殿(2021年7月撮影)

箱根神社宝物展示案内看板

箱根神社宝物展示案内

兄の佩刀『微塵丸』弟の佩刀『薄緑丸』が、箱根神社の宝物館に展示されています。最近では2021年に見学可能でした。

 

hobbyjapan.co.jp

こちらは日本刀のムック本です。上記の曽我兄弟の佩刀についてのみならず、曽我兄弟の仇討ちについてさまざまな側面から解説してあります。

 

 

現在、無料で、いちばん簡単な方法で『曽我物語』を見る方法は、以下のYouTubeチャンネルです。

 

https://youtu.be/ZHMjHS0ElC8
『ミュージカル刀剣乱舞 髭切膝丸 双騎出陣2020 〜SOGA〜』

 

2022年いっぱい見られるようです。
日本語・英語・中国語(簡体字繁体字)フランス語・スペイン語・ロシア語の字幕もついています。

 

耳慣れない用語などは日本語字幕で確認できますし、日本語以外の文化ではどのように表現されるのかを見比べるのも興味深いです。

 

公開から半年で80万回再生され、ひとつも低評価がついていないので、客観的評価のほどは示されているかと思います。前半一時間で、ぎゅぎゅっと圧縮された『曽我物語』が見られます。後半一時間は、若き稀代のパフォーマー(曽我兄弟を演じた俳優さんたち)たちによる圧巻のパフォーマンスショーです。これはこれでとても楽しいです。


刀剣乱舞』というゲームのキャラクターが、十郎・五郎を演じている、という入れ子構造なので、そういう前提を軽く認識して見ると、なぜ髪が金髪・薄緑色なの? などというあたりは「それはそれとして」と見られるかと思います。

 

💎

 

なぜ、曽我兄弟は、仇討ちをしたのか?

 

単に「父の仇」というには疑問の点がたくさんあるんですよね。

 

この点の考察は専門家・在野研究家、さまざまな立場の方々が調査研究考察を重ねている点であり、単に「好き」だけの私が語る必要はないかもしれないんですが。

 

こうやって書く機会があったので、別項目で考察をまとめてみたいと思います。

 

 

(写真はすべて筆者によるもの。紹介文献は個人的なお勧めです)

光り輝く皇后さま・光明皇后

私は自作に歴史ネタを織り込むことがあります。


『熱き神王に散らされて 牡牛座の愛』
https://www.amazon.co.jp/dp/B01EIZA7HI/ref=dbs_p_ebk_dam

 

に、王女たるヒロインが「誰もが嫌がる膿だらけの病人の膿を吸って癒やす」というエピソードがあります。


これは光明皇后

「体中が腫れて異臭を放つ病人の膿を擦って出してやると、その病人の身はたちまち美しく輝き、光明を放って消えた。病人の姿を取っていた阿閦仏(あしゅくぶつ)であった」

という徳の高い逸話からネタをお借りしています。

 


まぁ、嘘なんだけどね。(某マイクの小説家の人の真似)

 

(余談ですが夢野幻太郎ってなんのジャンルの作家なのかな。作風は変幻自在とあるのでマルチ作家……とか?)

 


嘘というか、伝説なので。そりゃそうだ。

 

※阿閦仏というのは、男性のものである仏教の中でも女性を尊重してくれる、なかなか特殊な仏さまです。また詳しく取りあげたいです。


安宿媛(あすかべひめ)という人物がいました。701〜760年、飛鳥時代の人物です。

奈良の大仏を建立した聖武天皇の皇后です。


藤原氏の娘です。

藤原不比等県犬養橘三千代の娘で、聖武天皇の母である藤原宮子は異母姉。

(姉が、夫の母なのです。姉が、姑なのです。古代にはそういうこと多いんですよね。ややこしい!)

 

兄が四人います。「藤原四兄弟」と呼ばれる、藤原氏繁栄の礎となった兄弟たちです。

 

 

藤原氏で有名な人物といえば、平安時代中期の人物。

源氏物語』のパトロンであったことや「この世をば 我が世とぞ思ふ 望月の 欠けたる ことも なしと思へば」の歌で有名な藤原道長かと思います。

安宿や藤原四兄弟は、この道長の300年ほど前のご先祖です。

 

 

安宿は光明子(こうみょうし)とか光明皇后とか呼ばれたりしています。安宿というのは生前の名前(諱)です。以降、安宿と呼びます。

 


なぜ「光明」なんて神々しい名前がついているのか。上記の阿閦仏のエピソードなんかから来ているのですが、もちろんほんとうのことではあり得ないです。鹿に育てられたとか(奈良だから。鹿は神のお使いです)その体が光っていたので父の藤原不比等に見つけられたとか、かぐや姫みたいな神々しいエピソードがたくさんあります。

 

なぜそうも祭りあげられたのか。

 

個人的には、安宿の皇后たる来歴が血濡れているからだと思っています。だからこそ神々しいエピソードで塗り固めて格を上げる必要があったのだと。なにせ聖武天皇の皇后なので、イメージアップは欠かせません。

 

安宿の四人のお兄さんたち、藤原四兄弟は、自分たちが陰謀にはめて死に追いやった政敵の怨念を受けて、次々とみんな死んだからです。

 

死に追いやられたのは、長屋王(ながやおう)。


「日本三大怨霊」と呼ばれる日本を代表する怨霊たち、以上に凄まじい怨念を残した人物、と個人的に思っています。

 

長屋王やその周辺の人物についてもまた書きますね。私が歴史上でもっとも好きなのはこのあたりの人物なので。

 


当時はがちがちの身分制度社会です。一に身分二に身分。

ですが安宿は藤原氏。皇族ではありません。皇族でない妃が皇后になるにはなにかと障害があります。

 

藤原氏の面々は、歴史記述上の人物でしかない当時よりさらに300年ほど前の人物・仁徳天皇の皇后・磐之媛(いわのひめ)は皇族出身ではなかったというなかなか難易度の高いこじつけをしたりして、安宿は聖武天皇の皇后になります。息子も生まれます、基皇子(もといのみこ)といいます。

 

ですがこの基皇子は一歳にもならないうちに亡くなります。なにせ八世紀の話ですから、子供が無事に成人するだけでもすごいことですから。

 

安宿の生んだ男の子は基皇子だけ。聖武天皇のほかの妃には元気な男の子が生まれてすくすく育っていたりして、藤原氏が皇族に影響力を持つ手がかりがなくなってしまいました。それどころかほかの一族に取られてしまうかもしれません。

 

そこらへんはほら、のちの藤原道長のご先祖ですから。臣下でありながら皇族に食い込み政治の主権を握る。その戦略は300年前からのものだったわけです。

 

藤原氏の血を引く皇子を皇太子にできない」(基皇子が死んじゃったので)となった藤原四兄弟は、自分たちの政権を盤石にするために邪魔な人物を抹殺します。

 

それが、長屋王長屋王自身については項目を改めますが、血筋も能力も最高レベルの、時の貴公子。藤原兄弟には邪魔な存在です。

 

藤原四兄弟は、長屋王を陰謀に嵌めて自殺に追い込みました。身分が高い人は『自ら死ぬ』ことを『選択』できるのです。結果的には一緒なんですけど。

 

政権ライバルの長屋王がいなくなって、藤原氏は思い通りに政権を動かします。安宿を皇后にします。

 

 

そこに起こったのが天然痘の流行。
紀元前より伝染力が非常に強い、死に至る疫病です。死ななくても体中にあばたが残ります。

 

かの伊達政宗も幼少期、天然痘に罹り、天然痘ウィルスが右目に入ったせいで失明して『独眼竜』となったと伝えられています。1977年に撲滅宣言が出された、人間が唯一撲滅した病気でもあります。

 

737年に大流行した天然痘藤原四兄弟は全員死にました。当時盛んに『長屋王の呪いだ』と言い立てられていたようです。

 

史書である『続日本紀』にはそのようなことは書いていません。藤原氏に都合が悪いことは書かなかった、さすがに「呪い」とかいくらなんでも……だったのか、それはわかりません。

 

それでも安宿は736〜738年にかけて熱心に写経を行わせています。聖武天皇長屋王の子供たちに位階を授けて長屋王の名誉回復に努めています。

 

それは、死に追いやった長屋王に対する後ろめたさとも、長屋王の怨念を晴らしたいからとも取れます。

 

長屋王の家族もあとを追いました。影響を受けて臣下もたくさん死んだでしょう。そんな「血濡れた」いきさつでその座に落ち着いた人物に、その正当性をくっつけたくなるのは当然のことかと。

だからこそ「光明」皇后など、輝かしい名とともに残っているのではないかと。

 

 

実際に慈悲深い人物ではあったようです。

 

貧しい病人のための病院・施薬院(せやくいん)を作ったり、悲田院(ひでんいん)という貧窮者や孤児を救済するための施設を作ったりしています。冒頭の阿閦仏のエピソードは、この施薬院で起こったことと伝えられています。

 

 

私は個人的に長屋王びいきなので「後ろめたいからそうやってフォローしたんじゃないの?」とか思っちゃいますけど、そこはそこ、推し(長屋王)の「敵」なのでそう思っちゃう私を許してください!

 

 

基皇子が死んだあとの皇太子はどうしたのか、聖武天皇の治世はどうだったのか。

 

藤原氏は繁栄し、300年後の藤原道長の代で望月のごとく満ちたわけで、藤原氏は「勝ち組」だといえるでしょう。

 

(ここ、道長の歌についてもまたいろいろあります。藤原実資の『小右記』とか。また書きます!)

 

 

聖武天皇の治世、皇太子はどうなったのか、藤原氏はどういう運命を引き寄せたのか。これらまた、別の項目で書きます。

 

 

(これを書いているとき、たーっまたま、テレビで中西進先生の、万葉集の番組やってたのでびっくりしました。テレビ番組はめったに見ないのに……こういうふうに「つながる」ことってありませんか?)

あかねさす/むらさきの・万葉集の恋の歌

相聞歌とは:恋の歌。恋人同士の間で詠みかわされた歌(ブリタニカ国際大百科事典より)

 

人を愛する歌、と言ってもいいと思います。

 

万葉集は4516首の歌からなっています。そのうちの相聞歌は1878首、42%にのぼります。

佐佐木信綱『新訓万葉集』(岩波文庫)解説より》

 

万葉集は、半分近くが恋の歌。

 

とっても乱暴に言うとそういうことです。

 


今回はその中の二首を取りあげます。

 


あかねさす 紫野行き標野行き 野守は見ずや 君が袖振る (巻一・20・額田王) 

 

(↓万葉仮名での表記とその読みです)

茜草指 武良前野逝 標野行 野守者不見哉 君之袖布流
(あかねさす むらさきのゆき しめのゆき のもりはみずや きみがそでふる)

 

 

紫草の にほへる妹を憎くあらば 人妻ゆゑに 我恋ひめやも (巻一・21・大海人皇子

 

(↓万葉仮名での表記とその読みです)

紫草能 尔保橄類妹乎 尔苦久有者 人蠕故尔 吾戀目八方
(むらさきの にほへるいもを にくくあらば ひとづまゆえに われこいめやも)

 

かつて夫婦だった男女が詠みかわした、恋の歌です。

 

「あかねさす」の歌の作者は、額田王

「むらさきの」の歌の作者は、大海人皇子

 

ふたりは「かつて夫婦だった」のです。

 

以前結に婚していたのです。この相聞歌を詠んだときはもう夫婦ではありませんでした。

 

この歌は、当時の天皇天智天皇の前で詠まれました。

 

額田王は、天智天皇の妻です。

大海人皇子は、天智天皇の弟です。

 

天智天皇は目の前で、自分の妻と、その元夫であり弟が、恋の歌を詠みかわすのを見せられたわけです。

 

いや、キッツ!

どういうシチュエーション!?

 

上記の二首の、現代語訳を載せます。

 

あかねさす 紫野行き標野行き 野守は見ずや 君が袖振る

【訳】(紫草の繁る)野を歩き、標野(※一般人の立ち入りが禁じられた野)を歩いていると野守(標野の見張り番)が見たりはしないでしょうか、あなたが袖を振るのを見られてはならないのに。

 

「あかねさす」は「紫の」の枕詞でそこから相聞歌として対になってるところもとても萌えポイントです。

 

紫草(と書いて「むらさき」と読む)というのは女性への最高の讃美で美称です。のちに編まれる源氏物語の「紫の上」も彼女が作中最高の女性とされるヒロインだからこ「むらさき」との呼び名(あだ名)なんですが閑話休題

 

 

紫草の にほへる妹を憎くあらば 人妻ゆゑに 我恋ひめやも

【訳】紫草のように美しいあなたを嫌いなら、他人の妻なのに恋い慕いましょうか、いや恋い慕ったりはしません。あなたを嫌いではないからこそ恋い慕うのです。


「妹(いも)」とは現代でいう「年下のおんなきょうだい」ではありません。「妹背(いもせ)」という言葉があります、親しい間柄の男女、つまり恋人同士や夫婦。「つがいの相手を示す言葉」と言ってもいいかもしれません。


「匂(にほふ)」とは、やっぱり現代で言う「匂う」(香りを感じる)ことではありません。「にほふ」という言葉にはいろいろな意味がありますが、ここでは「内面の美しさが生き生きと輝く」などという意味になります。

 

日本刀の刃の部分、刃文は細かい粒子でできています。粗い粒子を「沸(にえ)」と呼び、曇りガラスのように見える粒子を「匂(におい)」と呼びます。鋼でできている日本刀に匂いがあるわけはないので、もちろん「内面の美しさが生き生きと輝く」様子を表現しているわけです。

 

(日本刀には鼻で感じる匂いがあると、私は感じていますけど。鋼って匂いがします、いい匂い)

 


つまり「紫草のように美しい、私の妻」と言いたいわけです、大海人皇子は。


額田王はかつての妻だったとはいえ、今は違います。目の前の兄の妻です。兄は天皇です、最高権力者です。

 

そんな相手に向かって、その妻に「紫草のにほへる妹」って、ラブがあふれすぎています……当時の天皇は文字通りの最高権力者です、そんな相手に「おまえの妻を俺は愛してる!」って大声で言ってるわけで、喧嘩売ってる! 本気で命に関わる事態!

 

この相聞歌を初めて読んだ、子供のころの私は「きっとかつて愛し合っていたけれど引き裂かれたふたりが、人の目を盗んでこっそり詠みかわしたのね……」と思っておりました。

 

ですがこの相聞歌には序文があります。どういう状況で詠まれた歌か、との説明文です。

 

天皇、蒲生野に遊猟をしたまふ時、額田王の作る歌』

天智天皇が蒲生野で狩りをしたときに額田王が詠んだ歌、なんですね。

 

当時の狩りは権力者による公開行事です。直接狩りをしない女性などもたくさん参加していた、宮廷主催のピクニックみたいなものです。

 

その場で詠んだ歌、つまり天皇の目の前で公開した歌です。


天智天皇だけではなく、あらゆる人たちが見ている前で、額田王は元夫の大海人皇子に向けて「そんなに私にラブコールしてたらバレちゃいますよ」という意味の歌を詠み、大海人皇子は元妻に「今のあなたは人の妻だけれど今でも愛してるよ」って返歌してる。大胆不敵すぎる!

 

額田王超弩級の宮廷歌人です。歌を詠んで世論を発破したりするのも仕事です。

 

当時の「歌」は雅な趣味だけではなく、現代でいえば大きなイベントごとのテーマソングとかパフォーマンスにあたるでしょうか。それを担う偉大な宮廷歌人です。

 

大海人皇子はそんな額田王とかつて結婚していたのですが、兄の天智天皇中大兄皇子)に奪われています。略奪愛です。NTR?(語弊はありますが、まぁそんな感じです)。

 

恋の歌であることは間違いありません、袖を振るってのは当時の「恋しい人の魂を自分のほうへ引き寄せる」おまじないみたいなものです。どう考えても「恋の歌」なんです。

 

つまりこれは天智天皇に対する挑戦、戯れ歌だと笑って流せる天皇としての度量を試すためって説が濃厚です。時代、学者によって解釈が変わってくるものではありますが、序文からもそうだと思います。

 

やっぱり子供のころの私は「大人って……」ってなりました。こんな情熱的な相聞歌が戯れ歌(たわむれに作る歌)って。おとなってきたない。

 

そんな私は「紫草のにほへる妹」って口説いてくれる人がいたら即堕ちって思ってますけどそんな人は未だに現れません……解せぬ。