月森あいらの歴史雑談

歴史の雑談をします。

光り輝く皇后さま・光明皇后

私は自作に歴史ネタを織り込むことがあります。


『熱き神王に散らされて 牡牛座の愛』
https://www.amazon.co.jp/dp/B01EIZA7HI/ref=dbs_p_ebk_dam

 

に、王女たるヒロインが「誰もが嫌がる膿だらけの病人の膿を吸って癒やす」というエピソードがあります。


これは光明皇后

「体中が腫れて異臭を放つ病人の膿を擦って出してやると、その病人の身はたちまち美しく輝き、光明を放って消えた。病人の姿を取っていた阿閦仏(あしゅくぶつ)であった」

という徳の高い逸話からネタをお借りしています。

 


まぁ、嘘なんだけどね。(某マイクの小説家の人の真似)

 

(余談ですが夢野幻太郎ってなんのジャンルの作家なのかな。作風は変幻自在とあるのでマルチ作家……とか?)

 


嘘というか、伝説なので。そりゃそうだ。

 

※阿閦仏というのは、男性のものである仏教の中でも女性を尊重してくれる、なかなか特殊な仏さまです。また詳しく取りあげたいです。


安宿媛(あすかべひめ)という人物がいました。701〜760年、飛鳥時代の人物です。

奈良の大仏を建立した聖武天皇の皇后です。


藤原氏の娘です。

藤原不比等県犬養橘三千代の娘で、聖武天皇の母である藤原宮子は異母姉。

(姉が、夫の母なのです。姉が、姑なのです。古代にはそういうこと多いんですよね。ややこしい!)

 

兄が四人います。「藤原四兄弟」と呼ばれる、藤原氏繁栄の礎となった兄弟たちです。

 

 

藤原氏で有名な人物といえば、平安時代中期の人物。

源氏物語』のパトロンであったことや「この世をば 我が世とぞ思ふ 望月の 欠けたる ことも なしと思へば」の歌で有名な藤原道長かと思います。

安宿や藤原四兄弟は、この道長の300年ほど前のご先祖です。

 

 

安宿は光明子(こうみょうし)とか光明皇后とか呼ばれたりしています。安宿というのは生前の名前(諱)です。以降、安宿と呼びます。

 


なぜ「光明」なんて神々しい名前がついているのか。上記の阿閦仏のエピソードなんかから来ているのですが、もちろんほんとうのことではあり得ないです。鹿に育てられたとか(奈良だから。鹿は神のお使いです)その体が光っていたので父の藤原不比等に見つけられたとか、かぐや姫みたいな神々しいエピソードがたくさんあります。

 

なぜそうも祭りあげられたのか。

 

個人的には、安宿の皇后たる来歴が血濡れているからだと思っています。だからこそ神々しいエピソードで塗り固めて格を上げる必要があったのだと。なにせ聖武天皇の皇后なので、イメージアップは欠かせません。

 

安宿の四人のお兄さんたち、藤原四兄弟は、自分たちが陰謀にはめて死に追いやった政敵の怨念を受けて、次々とみんな死んだからです。

 

死に追いやられたのは、長屋王(ながやおう)。


「日本三大怨霊」と呼ばれる日本を代表する怨霊たち、以上に凄まじい怨念を残した人物、と個人的に思っています。

 

長屋王やその周辺の人物についてもまた書きますね。私が歴史上でもっとも好きなのはこのあたりの人物なので。

 


当時はがちがちの身分制度社会です。一に身分二に身分。

ですが安宿は藤原氏。皇族ではありません。皇族でない妃が皇后になるにはなにかと障害があります。

 

藤原氏の面々は、歴史記述上の人物でしかない当時よりさらに300年ほど前の人物・仁徳天皇の皇后・磐之媛(いわのひめ)は皇族出身ではなかったというなかなか難易度の高いこじつけをしたりして、安宿は聖武天皇の皇后になります。息子も生まれます、基皇子(もといのみこ)といいます。

 

ですがこの基皇子は一歳にもならないうちに亡くなります。なにせ八世紀の話ですから、子供が無事に成人するだけでもすごいことですから。

 

安宿の生んだ男の子は基皇子だけ。聖武天皇のほかの妃には元気な男の子が生まれてすくすく育っていたりして、藤原氏が皇族に影響力を持つ手がかりがなくなってしまいました。それどころかほかの一族に取られてしまうかもしれません。

 

そこらへんはほら、のちの藤原道長のご先祖ですから。臣下でありながら皇族に食い込み政治の主権を握る。その戦略は300年前からのものだったわけです。

 

藤原氏の血を引く皇子を皇太子にできない」(基皇子が死んじゃったので)となった藤原四兄弟は、自分たちの政権を盤石にするために邪魔な人物を抹殺します。

 

それが、長屋王長屋王自身については項目を改めますが、血筋も能力も最高レベルの、時の貴公子。藤原兄弟には邪魔な存在です。

 

藤原四兄弟は、長屋王を陰謀に嵌めて自殺に追い込みました。身分が高い人は『自ら死ぬ』ことを『選択』できるのです。結果的には一緒なんですけど。

 

政権ライバルの長屋王がいなくなって、藤原氏は思い通りに政権を動かします。安宿を皇后にします。

 

 

そこに起こったのが天然痘の流行。
紀元前より伝染力が非常に強い、死に至る疫病です。死ななくても体中にあばたが残ります。

 

かの伊達政宗も幼少期、天然痘に罹り、天然痘ウィルスが右目に入ったせいで失明して『独眼竜』となったと伝えられています。1977年に撲滅宣言が出された、人間が唯一撲滅した病気でもあります。

 

737年に大流行した天然痘藤原四兄弟は全員死にました。当時盛んに『長屋王の呪いだ』と言い立てられていたようです。

 

史書である『続日本紀』にはそのようなことは書いていません。藤原氏に都合が悪いことは書かなかった、さすがに「呪い」とかいくらなんでも……だったのか、それはわかりません。

 

それでも安宿は736〜738年にかけて熱心に写経を行わせています。聖武天皇長屋王の子供たちに位階を授けて長屋王の名誉回復に努めています。

 

それは、死に追いやった長屋王に対する後ろめたさとも、長屋王の怨念を晴らしたいからとも取れます。

 

長屋王の家族もあとを追いました。影響を受けて臣下もたくさん死んだでしょう。そんな「血濡れた」いきさつでその座に落ち着いた人物に、その正当性をくっつけたくなるのは当然のことかと。

だからこそ「光明」皇后など、輝かしい名とともに残っているのではないかと。

 

 

実際に慈悲深い人物ではあったようです。

 

貧しい病人のための病院・施薬院(せやくいん)を作ったり、悲田院(ひでんいん)という貧窮者や孤児を救済するための施設を作ったりしています。冒頭の阿閦仏のエピソードは、この施薬院で起こったことと伝えられています。

 

 

私は個人的に長屋王びいきなので「後ろめたいからそうやってフォローしたんじゃないの?」とか思っちゃいますけど、そこはそこ、推し(長屋王)の「敵」なのでそう思っちゃう私を許してください!

 

 

基皇子が死んだあとの皇太子はどうしたのか、聖武天皇の治世はどうだったのか。

 

藤原氏は繁栄し、300年後の藤原道長の代で望月のごとく満ちたわけで、藤原氏は「勝ち組」だといえるでしょう。

 

(ここ、道長の歌についてもまたいろいろあります。藤原実資の『小右記』とか。また書きます!)

 

 

聖武天皇の治世、皇太子はどうなったのか、藤原氏はどういう運命を引き寄せたのか。これらまた、別の項目で書きます。

 

 

(これを書いているとき、たーっまたま、テレビで中西進先生の、万葉集の番組やってたのでびっくりしました。テレビ番組はめったに見ないのに……こういうふうに「つながる」ことってありませんか?)